「社会保険料が下がる」という誘いに乗った方が、いま直面しているのは是正そのものではなく、是正の後に残る損失です。厚生労働省は令和8年3月18日に判断基準を明確化し、さらに令和8年9月14日付で2本の通達を発出して包囲を固めました。しかし結論から言えば、問題は資格を失うことではありません。医療費を取り戻せるのは2年分まで、国民年金保険料も2年分しか納められない——つまり2年より前の期間は、お金を払いたくても取り返せない空白として残ります。今回は、この「時効の壁」を中心に解説します。
1. 2026年9月、通達はどこまで広がったのか?
役員型に加え、「短時間正社員型」も封じられました。
厚生労働省保険局保険課長・年金局事業管理課長は、令和8年9月14日付で次の2本を発出しています。
| 通知 | 番号 | 内容 |
|---|---|---|
| 勤務時間が短い正規型の労働者として事業所に使用されている個人事業主等に係る被保険者資格の取扱いについて | 保保発0914第2号・年管管発0914第2号 | 新規。役員ではなく「短時間正社員」として雇用する形のスキームを対象に |
| 「法人の役員である個人事業主等に係る被保険者資格の取扱いについて」の一部改正について | 保保発0914第1号・年管管発0914第1号 | 3月18日通達(保保発0318第1号)の一部改正 |
一部改正で加わったのが、次の点です。3月の通達は「会費等が役員報酬を上回る場合」を原則アウトとしていましたが、改正後は会費等が報酬以下でも、報酬の多くを占めることが常態化している場合は、常用的使用関係が認められない可能性があるとされました。
さらに、会費等の定義として「勉強費、広告費、掲載料など、名称の如何を問わない」との注記が新設され、業務の実態についても「役員相互間の研さん、業務の互助的な紹介等」は相互互助的な連携にすぎず、経営参画の労務提供とは原則認められないと明記されました。
新しい保保発0914第2号も、同じ構造を「短時間正社員」型に当てはめています。労働時間が常態的に極端に短い場合、業務が単なる自己研さんや活動報告への協力、労働者同士の相互互助的な連携、個人事業そのものを形式的に事業所の業務とするものにとどまる場合は、被保険者資格を有さないものとして扱うとしています。
「会費を報酬より少なくした」「役員ではなく社員にした」という設計変更は、すでに通達の射程内ということです。
2. 是正されると、何が起きるのか?
資格喪失にとどまりません。給付も保険料も巻き戻ります。
3月18日通達は、法人に使用されている実態がないことが確認された場合、資格喪失の届出を提出させ、被保険者資格を喪失させるとしています。そして事実と異なる資格取得の届出は、健康保険法第48条および厚生年金保険法第27条に反すると明記されています。
| 是正の内容 | 具体的に起きること |
|---|---|
| 健康保険の資格喪失 | 保険者(協会けんぽ・健保組合)から、医療費の7割相当額の返還を求められる |
| 国民健康保険への遡及加入 | 本来納めるべきだった国保保険料を一括で請求される |
| 厚生年金の資格喪失 | 加入期間が消え、国民年金第1号被保険者として遡る |
| 被扶養者の資格喪失 | 配偶者・子の資格も同時に失い、家族分も国保へ |
| 受給済みの傷病手当金等 | 返還の対象。国保には傷病手当金が原則ないため、受け取り直せない |
3. 本当の代償は「2年の時効」にある
取り返せる範囲が2年で切られるため、それ以前は自己負担のまま残ります。
ここが最も見落とされている点です。是正されると、遡って国民健康保険と国民年金に加入することになります。それなら「払い直せば元に戻る」と思われがちですが、制度の時効がそれを許しません。
① 医療費は2年分しか請求できない
遡って国保に加入した場合、資格取得日以降の受診分は、国保に療養費として請求できます。しかし保険給付の請求権は2年を経過すると時効により消滅します(国民健康保険法第110条)。
つまり、協会けんぽへ7割分を返したうえで、国保に請求できるのは直近2年分のみ。それより前の受診分は、7割分がそのまま自己負担として残ります。
② 国民年金保険料は2年分しか納められない
日本年金機構も明示しているとおり、国民年金保険料は納付期限から2年を過ぎると時効により納付できなくなります。
遡及して第1号被保険者になっても、2年を超える期間は納めたくても納められません。その期間は未納として年金記録に残り、老齢基礎年金の額に反映されません。さらに、消えた厚生年金の加入期間は報酬比例部分だけでなく、障害厚生年金・遺族厚生年金の対象からも外れます。
【社労士が想定する典型的な損失ケース】
※特定の事案ではなく、制度の仕組みから計算したモデルケースです。
スキームに4年間加入していた個人事業主(年収600万円)が是正された場合——
健康保険へ返還する医療費:この4年間に手術・入院があれば、7割分は数十万円規模
国保へ請求できる医療費:直近2年分のみ。3〜4年前の分は回収不能
国保保険料:遡及して請求される(自治体の取扱いにより範囲は異なります)
国民年金保険料:納められるのは直近2年分のみ。3〜4年前の24か月分は永久に未納
厚生年金の加入期間:4年分(48か月)が消滅
業者に支払った会費:返還されない
「安くなった分を返す」だけでは済まず、時効の壁の向こう側に、回収できない損失が確定します。
4. 社労士と経営者の会話
経営者「実は3年ほど前から、知人の紹介で、ある協会の理事になって社会保険に入っています。会社とは別に個人事業もやっているので、国保より安くなると聞いて」
社労士「会費はいくらお支払いですか」
経営者「月7万円です。理事報酬が月8万円なので、報酬のほうが多いですから問題ないと言われました」
社労士「3月の通達ではその設計が通る余地がありましたが、9月14日付の一部改正で封じられました。会費が報酬以下でも、報酬の多くを占める状態が常態化していれば、常用的使用関係は認められない可能性があるとされています」
経営者「7万円と8万円では、まさに『多くを占める』ですね……。理事としては、月1回の勉強会とオンラインの情報共有に参加しています」
社労士「改正後の通達は、役員相互間の研さんや業務の互助的な紹介等は、相互互助的な連携にすぎず経営参画とは認められないと明記しました。残念ですが、この形はもう厳しいです」
経営者「では今すぐ抜ければ、過去は問われませんか」
社労士「そこが一番お伝えしたい点です。通達は、実態がないと確認された場合に資格を喪失させるとしています。問題はその後です。3年前からということは、1年分は時効の向こう側です」
経営者「時効というのは」
社労士「2つあります。まず医療費。健康保険に7割分を返したうえで国保に請求しますが、国保に請求できるのは2年分までです。3年前の受診分は、返した7割がそのまま自己負担になります」
経営者「……去年の春に入院したのは2年以内ですが、3年前にも通院していました」
社労士「その分は戻りません。もう一つが年金です。国民年金保険料は納付期限から2年を過ぎると納められません。3年前の分は、払いたくても払えず、未納期間として記録に残ります」
経営者「厚生年金に入っていたつもりの期間が、空白になるということですか」
社労士「そうです。しかも障害厚生年金や遺族厚生年金の対象からも外れます。万一この期間に障害が残っていたら、取り返しがつきませんでした」
経営者「会費として払った合計250万円ほどは」
社労士「業者との契約内容次第ですが、返還を期待するのは難しいでしょう。それから、ご家族を扶養に入れていませんか」
経営者「妻を入れています」
社労士「奥様の資格も同時に失います。奥様の分も国保に遡ることになりますので、世帯全体で影響を見る必要があります」
経営者「どうすればよいでしょうか」
社労士「まず会費と報酬の実額、理事としての業務内容、加入時期を書面で整理してください。調査が来てから動くのと、自主的に整理してから動くのでは、残る損失の大きさが変わります。とくに医療費と年金は、1か月遅れるごとに時効の向こう側に流れていきます」
5. 従業員が関わっている場合、会社は何を確認すべきか
自社の手続にも影響します。
従業員が副業でこの種の法人の役員や短時間正社員になっている場合、次の点を確認してください。
二以上事業所勤務届の有無——複数の事業所で被保険者となる場合、報酬を合算して標準報酬月額を決定します。届出が漏れていれば自社の保険料計算にも誤りが生じます
是正された場合の自社側の影響——相手先の資格が遡って喪失すれば、自社の保険料の再計算が必要になることがあります
会社が勧誘側になっていないか——自社の関連団体で同様の仕組みを運用している場合、事実と異なる資格取得届は健康保険法第48条・厚生年金保険法第27条に反します。届出義務違反は、健康保険法第208条・厚生年金保険法第102条により6か月以下の拘禁刑または50万円以下の罰金の対象です
よくある質問(FAQ)
Q. 自分から抜ければ、過去は問われませんか。 A. 通達は、実態がないと確認された場合に資格を喪失させるとしています。過去分の取扱いを明示的に否定した記載はなく、遡及の可能性は残ります。自主的な整理を早く始めるほど、時効による損失は小さくなります。
Q. 払い直せば、元の状態に戻りますか。 A. 戻りません。医療費を国保に請求できるのは2年、国民年金保険料を納められるのも2年です。それより前の期間は回収できません。
Q. 業者が「厚労省の通達は新規加入だけが対象」と説明しています。 A. 通達は新規・既存を区別していません。9月14日の一部改正でも、既存の加入者を除外する記載はありません。
Q. 会費を減額すれば続けられますか。 A. 9月14日の一部改正で、会費等が報酬以下でも報酬の多くを占めることが常態化している場合は認められない可能性があるとされました。また会費等は名称を問わないとされており、勉強費や広告費への名称変更も意味を持ちません。
まとめ
国保逃れの問題は、是正される瞬間より、是正された後に残るものにあります。医療費は2年、年金保険料も2年。この時効の壁を超えた期間は、お金を用意しても取り戻せません。そして2026年9月14日の通達により、会費の額や肩書きを調整する設計変更はすでに封じられています。加入中の方は、会費と報酬の実額、業務の実態、加入時期を整理して、できるだけ早く社会保険労務士にご相談ください。1か月の遅れが、そのまま回収不能額になります。



