「正社員化で1人あたり最大80万円」——こう聞くと魅力的に映ります。しかし助成金は、支給までの立替え、税金、そして制度を元に戻せないという3つのコストと必ずセットです。結論から言えば、もともと実施する予定だった取組みに助成金を充てるなら「お得」、助成金のために取組みを作るなら「損」になりやすいというのが実務の答えです。今回は、社労士が実際に顧問先へお伝えしている損得の考え方を解説します。
1. そもそも助成金はなぜ「返済不要」なのか?
助成金の財源は主に事業主が納めている雇用保険料(雇用保険二事業)になります。雇用関係助成金は、雇用保険法第4章の雇用安定事業・能力開発事業として実施されており、その原資は主に事業主のみが負担する雇用保険二事業の保険料です。融資ではないため返済は不要で、この点は借入金とまったく性質が異なります。裏を返せば、すでに納めた保険料の還元という側面があるため、要件を満たすのであれば申請しないほうがもったいない、とも言えます。問題は「要件を満たすために何をどこまでやるか」がポイントになります。
2. 助成金を申請するメリットは何か?
返済不要の資金、社内制度の整備、採用・定着への波及、の3点です。
① 返済不要で、使途が限定されない これは中小企業庁や地方自治体等の補助金と異なり、雇用関係助成金の多くは支給後の使途に制限がありません。運転資金などとして自由に使えます。
② 社内制度が「強制的に」整う キャリアアップ助成金の正社員化コースの場合、就業規則等への正社員転換制度の規定が要件になります。賃金規定等改定コースでは、就業規則や労働協約で定めた賃金規定の改定が前提です。(厚生労働省「キャリアアップ助成金のご案内(令和8年度版)」)。つまり助成金申請の過程で、後回しになりがちな規程整備が完了します。これは会社だけでなく社員さんにとって金額以上に価値のある副産物です。
③ 採用・定着への波及効果 正社員転換制度や教育訓練制度が制度化されていること自体が、求人時の訴求材料になります。
3. 見落とされがちなデメリットは何か?
「後払い・課税・後戻りできない」の3つです。
| デメリット | 内容 |
|---|---|
| ① 後払い(立替えが必要) | 賃金の引上げや正社員転換を先に実施し、一定期間経過後に支給申請。入金までに数か月〜1年程度かかることも珍しくなく、その間の資金は自社で負担します |
| ② 課税対象になる | 助成金は法人税法上の益金(雑収入)として計上され、課税されます。80万円受給しても、手元に残るのは税引後の金額です |
| ③ 制度を元に戻せない | 正社員化や賃金引上げは労働条件の引上げです。助成金は一度きりですが、増えた人件費と社会保険料は毎年続きます。安易に戻せば不利益変更の問題が生じます |
| ④ 事務負担と書類保存 | 計画書の事前提出、出勤簿・賃金台帳等の整備、支給申請、労働局の実地調査への対応。関係書類は保存義務があります |
| ⑤ そもそも申請できない場合がある | 労働保険料の滞納、過去1年以内の労働関係法令違反、不正受給による不支給期間中などは、要件を満たしていても支給されません |
④⑤の共通要件については、厚生労働省「各雇用関係助成金に共通の要件等」に、審査に必要な書類の整備・保管、労働局の実地調査の受入れ、受給できない事業主の類型が整理されています。②の会計処理は、法人税基本通達2-1-42(法令に基づき交付を受ける給付金等の帰属の時期)が根拠となります。
4. 社労士と経営者の会話——電卓を叩いてみる
経営者「知り合いから、パートを正社員にすれば1人80万円もらえると聞きました。うちのパート5人を全員正社員にすれば400万円ですよね」
社労士「その80万円は重点支援対象者に該当する場合の額で、非該当では40万円です。それに正社員転換時に時給ベースで3%以上の賃上げと半年で原則10万円の賞与支払い(退職金の場合は1.8万円の積立)も必要になります。5人を正社員にしたら、人件費は月いくら増えますか」
経営者「月給にすると1人あたり月5万円ほど増えるかもしれません」
社労士「5人で月25万円、年間300万円です。社会保険料の会社負担が増える分も乗ります。助成金は一度きりですが、この300万円は来年も再来年も続きます」
経営者「そう言われると……」
社労士「もう一つ。助成金は雑収入として課税されます。400万円がそのまま残るわけではありません」
経営者「では申請しないほうがいいということですか」
社労士「いいえ、逆です。もともと正社員化したい人がいるなら、絶対に申請すべきです。人手不足で辞められたら困る、長く働いてほしい——そういう方が1人でもいるなら、その転換に助成金を充てる。これが正しい順番です」
経営者「順番、ですか」
社労士「そうです。『正社員にしたい人がいる→助成金を使う』ならお得。『助成金が欲しい→誰か正社員にできないか探す』なら、まず損をします。必要のない人件費増を毎年抱えることになりますから」
経営者「なるほど。1人だけでも申請できますか」
社労士「できます。まずは1人で試して、事務負担と資金繰りの実感をつかむ。それから広げるのが現実的です。ただしキャリアアップ計画書の事前提出が必要で、転換後に出しても原則対象外です。ここだけは順番を間違えないでください」
計画書の様式は、厚生労働省の申請様式ページ(令和8年4月8日以降の取組に係る様式)からダウンロードできます。
5. 助成金が「お得」になる会社の判断基準は?
次の3つをすべて満たすなら、申請する価値が高いといえます。
その取組みを、助成金がなくても実施する予定だった——最重要の基準です
増える人件費を継続的に負担できる見通しがある——一時金ではなく恒常コストで判断します
就業規則と実態が一致している——申請時に労働局が確認するのは規程だけでなく実際の運用です
未払い賃金がないーー当たり前ですが、そもそも未払い残業が無い事が大前提です。
逆に、「助成金コンサルタントから提案されたが、自社に必要な取組みか説明できない」という状態であれば、いったん立ち止まるべきです。
6. 不正受給と言われないために
「知らなかった」では済まされない、極めて重いペナルティが設定されています。
偽りその他不正の行為により助成金を受けた場合、①受給額の全額返還、②不正受給の日の翌日から納付日までの延滞金(年3%。令和2年3月31日以前の申請は年5%)、③返還を求められた額の20%に相当する額の合計額が請求されます。あわせて、不支給決定日または支給決定取消日から原則5年間、すべての雇用関係助成金が受給できなくなり、事業主名・代表者名等が労働局のホームページ等で公表されます。悪質な事案は刑事告発の対象です。
さらに、不正に関与した社会保険労務士や代理人にも、公表や連帯しての弁済義務といった措置が及びます。私たち専門家が書類確認を厳格に行うのはこのためです。
実務上とくに注意が必要なのは、出勤簿や賃金台帳の実態との不一致です。「転換日を書類上だけ早めた」「支払っていない賃金を台帳に記載した」——こうした処理は、本人に不正の意識がなくても不正受給と評価されます。
全てコンサルタントに任せていた、申請書類は見たことがない、白紙の用紙に印鑑を押しただけで詳細は分からない。このような申請はとても危険といえます。
よくある質問(FAQ)
Q. 助成金は課税されますか。 A. されます。法人税法上の益金(雑収入)として計上され、課税対象になります。消費税は不課税取引です。
Q. 申請してから入金までどのくらいかかりますか。 A. コースや労働局の審査状況により異なりますが、取組み実施から支給決定まで数か月〜1年程度を見込んでおくのが安全です。資金繰り計画は入金を前提にしないでください。
Q. 労働保険料を滞納していると受給できませんか。 A. 原則として受給できません。申請前に納付状況を確認してください。
Q. 助成金を受けた後、正社員を元のパートに戻せますか。 A. 労働条件の不利益変更となり、本人の同意なく一方的に戻すことはできません。助成金の返還を求められる可能性もあります。
まとめ
助成金の損得を決めるのは、金額の大小ではなく順番です。実施したい取組みが先にあり、そこに助成金を充てるなら確実にプラスになります。逆に助成金を目的に制度を作れば、一時金と引き換えに恒常的なコストを抱え込むことになります。自社の取組みが要件に合うか、また就業規則の記載と実際の運用が一致しているかは、申請前の段階で社会保険労務士にご確認ください。
(出典:厚生労働省「雇用関係助成金に共通の支給要領」/同「キャリアアップ助成金のご案内(令和8年度版)」/雇用保険法第4章(雇用安定事業等)、雇用保険法施行規則/各都道府県労働局「各種助成金の不正受給について」)



